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実は総理大臣になったすごい人が多い群馬県!その業績を紹介

テレビや新聞などに登場する場面も多い「総理大臣」。日本の政治家を代表する存在として、ときには世界各国へ足を運び、他国との話し合いをまとめる「日本の顔」です。これまでの歴史の中で数々の総理大臣が誕生してきましたが、その中に群馬県出身者も名を連ねています。そこで、この記事では群馬県出身の総理大臣について紹介します。

1.群馬県出身の総理大臣は4人!戦後では全国で一番多い

明治時代から戦前までの間で、日本の総理大臣が最も多く輩出されたのは山口県でした。明治18年に初代総理大臣として伊藤博文氏が就任したのを皮切りに、13年後の明治31年までは山口県(長州藩)と鹿児島県(薩摩藩)が交互に就任していました。明治31年に第7代に就任したのは初代・第5代でも総理大臣を務めた伊藤氏です。戦前まで山口県出身の総理大臣が多かったのは、このように「薩長推し」が当たり前の世界だったからといえます。また、伊藤氏のように複数回総理大臣を務めた人も少なくありませんでした。
戦後については群馬県出身の総理大臣は福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫の4名と最多となっています。群馬県では、その4人の功績を称えるために昭和庁舎2階特別展示室(旧知事室・知事応接室)を「上州人宰相記念室」として設置しました。各総理大臣のプロフィールや功績パネル、DVDによる映像を見ることもできます。ちなみに、4人全員が「名誉県民」の称号を得ています。

2.第67代総理大臣の福田赳夫はどんな人?

こちらでは、第67代総理大臣の福田赳夫氏について紹介します。

2-1.プロフィール

福田氏は1905年1月14日群馬県高崎市で生誕し、東京帝国大学(現東京大学)を卒業しています。学生時代から秀才肌だった福田氏は、卒業後も順調に大蔵省に入省し、エリート官僚となりました。官僚になるためには高等文官試験に合格することが登竜門とされていましたが、福田氏はこちらもトップクラスの成績で見事に合格しています。その後、政治家へ転身して自民党へ入党。当時は総理大臣を務めていた池田勇人氏のサポートをしていたものの、政策の違いからその政権について批判、自民党内でも浮いた存在となってしまいました。
出世を目指すのであれば総理大臣の政策を支持し、逆らうようなことをしないほうが良いでしょう。しかし、福田氏は損をする可能性があるとわかっていながらも、自分の意見をしっかりと口に出しました。こういった点から、自分の信念を強く持っている、まっすぐな性格であったことがうかがえます。田中角栄元総理大臣との権力闘争では敗北を経験しますが、その後、第二次田中内閣に入閣しました。そこから政治家として徐々に力をつけ、様々な活躍を見せています。

2-2.総理大臣としての実績

福田氏が総理大臣に就任したのは、昭和51年12月23日のことでした。第67代総理大臣として、「協調と連帯」を基本理念とました。目標として、内政は「景気の浮揚」と「雇用の安定」、外交は「世界の中の日本」として積極的に国際協調、党再生のためには「出直し的改革」の目標を掲げて就任後はさらに積極的に外交に努めるようになり、日米首脳会談や先進国首脳会議、中東・アセアン諸国を歴訪するなどしました。それによって、世界各国から多くの支持を得ることにも成功しています。特に、アジア全体において安定や繁栄を願った政策は「福田ドクトリン」と呼ばれ、評価されました。日中平和友好条約の締結にも尽力しました。
また、福田氏は経済面でも「経済の福田」と呼ばれていましたが、日本国内の経済面を回復するために大胆な政策を行い、経済成長が先進国において第1位という結果を出しています。さらに、貿易を驚異的に推進することで物価を安定させました。これによって昭和53年の消費者物価の上昇率がわずか3.8%となったのです。

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3.第71代総理大臣の中曽根康弘はどんな人?

こちらでは、第71代総理大臣の中曽根康弘氏がどのような人物だったのかについて見てみましょう。

3-1.プロフィール

1918年5月27日群馬県高崎市で、中曽根康弘氏は父の松五郎と母ゆくの間に次男として誕生しました。中曽根家は関東でも有数の材木問屋「古久家」を経営しており、比較的裕福な家庭で育ちました。県立高崎中学校と静岡高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、内務省に入省しています。その後は海軍短期現役制度に応募して「海軍主計中尉」に任命され、フィリピンや台湾において戦争も経験しました。戦後は内務省に復帰したものの、昭和21年には退官し、翌年には衆議院議員選挙出馬、議員としての生活が始まったのです。
昭和34年に41歳で岸内閣に科学技術庁長官として初入閣したのをきっかけに、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣兼科学技術庁長官、行政管理庁長官を務めました。そして、昭和57年11月、第71代総理大臣に就任したのです。「国際国家・日本」を目指していたこともあり、中曽根氏はイギリスの首相マーガレット・サッチャー氏をはじめとした海外要人と交友関係を多く持っていたことが知られています。そのなかでも、特にアメリカのロナルド・レーガン大統領とは非常に親しく、お互いに「ロン」「ヤス」と愛称で呼び合っていたほど親しかったことが有名です。ちなみに、同じく元総理大臣だった田中角栄氏とは同年齢であり、「永遠のライバル」として切磋琢磨していました。

3-2.総理大臣としての実績

中曽根氏といえば、日本の総理大臣として初めて韓国を公式に訪問したことが知られています。当時の大統領である全斗煥氏と対談し、経済問題の解決、両国の発展に協力し合うという点において合意を得ることにも成功しました。さらに、アメリカのレーガン大統領と親交し、日米親善友好関係も強化したのです。しかし、中曽根氏は実際に戦地へ赴き、戦争を体験していたため、日米の関係が「もし悪化してしまった場合」のことについても対策を考えていたといわれています。
国内では電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)、日本たばこ産業(現JT)の民営化を行い、基礎年金制度の導入や医療保険改革など、様々な功績もあげています。中曽根氏は、昭和62年に約5年間に及ぶ総理大臣としての生活を終えました。在職期間は1,806日と、戦後に就任した総理大臣のなかでも第4位にランクインしています。大勲位菊花大綬章が授与されたり、議員引退後も国際政治家として提言したりなど、その生涯を日本のために尽くした人物でした。

4.第84代総理大臣の小渕恵三はどんな人?

平成初の総理大臣である「小渕恵三とはどのような人物だったのか」について紹介します。

4-1.プロフィール

小渕恵三氏は昭和12年6月25日、群馬県吾妻郡で父である小渕光平と母ちよの次男として誕生しました。中之条中学から学習院中等科に編入後、都立北高等学校・早稲田大学第一文学部を卒業しています。そこから早稲田大学大学院へ進学すると在学中に衆議院議員選挙に出馬、最年少である26歳で当選を果たしました。7年後の昭和45年には郵政政務次官、さらに2年後には建設政務次官就任と順調に政治家としての人生を歩みはじめます。昭和62年には竹下内閣で内閣官房長官に就任し、昭和天皇崩御の際には新元号である「平成」を発表する役割を担いました。それがきっかけとなり、国民、特に若い世代からは「平成おじさん」として親しまれるようになりました。
小渕氏は郵政政務次官時代に「現場の気持ちを知らなければならない」という気持ちから自ら郵便配達を行い、郵政局員たちを驚かせたことがありました。どのような相手に対しても柔和に接する温かい人柄であったことも、国民から「人柄の小渕」として親しまれる理由の1つでした。

4-2.総理大臣としての実績

小渕氏の総理大臣としてのスタートは、けして順調といえるものではありませんでした。当時は不況の真っ最中であり、支持率も24.8%でした。この数字は歴代の支持率のなかでもワースト2位であり、ここから挽回するのは非常に厳しいとされていました。しかし、小渕氏は「富国有徳」をスローガンとし、経済の回復に努めたのです。その努力のおかげで、支持率は47.6%にまで上昇しています。財政政策の転換や金融秩序の安定など過去最大といわれた緊急経済対策が功を奏したのです。
日中・日韓関係など難航しがちな国交問題にも積極的に動き、在籍期間2年以下という短期間でも数々の功績を上げています。平成12年開催の沖縄主要国首脳会議の開催など、世界秩序の安定のためにも尽力しました。小渕氏は日本の発展に貢献した最大の功労者の1人であるといわれ、群馬県民の誇りと評される総理大臣です。

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5.第91代総理大臣の福田康夫はどんな人?

こちらでは、群馬県出身の総理大臣4人目である第91代総理大臣「福田康夫氏」について紹介します。

5-1.プロフィール

1936年7月16日、群馬県高崎市で大蔵官僚だった父・福田赳夫と母の三枝の長男として誕生しました。父親の赳夫氏は第67代総理大臣であり、親子2代で総理大臣を務めたことになります。麻布中学校・麻布学園高等学校・早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業しています。その後は石油会社に入社し、1962年から2年間ほどアメリカのロサンゼルス支店に勤務していた経験があります。福田氏は当初政治家になるつもりがなく、40歳までサラリーマンとして勤務していました。政界に入るきっかけとなったのは父の後継者候補だった弟(次男)が病気になったことです。母から後継者にと推されたこともあり、1976年、政治家を目指して長年勤めた会社を退社しています。
退社後すぐに衆議院議員秘書になり、1977年からは内閣総理大臣だった父の秘書官を1年間務めました。1990年になると衆議院議員に当選し、50歳以上で初当選した人が所属する「クローニンの会」にも入会しています。その後は外務政務次官や党外交部会長など、外交関係の職務で政治家としての経験を積みました。2000~2003年まで国務大臣内閣官房長官を務め、2007年に総理大臣に任命されています。

5-2.総理大臣としての実績

2007年、当時の首相・安部氏が突然辞任を表明し、福田氏が当時の麻生太郎幹事長と総裁選で争った結果、第91代総理大臣に就任しました。安部氏の基本方針をそのまま継承し、17ある閣僚の多くについても再任するという「背水の陣内閣」を発足したのです。就任後の参院選では与野党の議席数が逆転した「ねじれ国会」となったこともあり、スムーズなスタートとは言い難い状態でした。その後の政権運営でも苦労の連続でしたが、福田氏が目指したのはあくまでも「国民から信頼される政治」だったのです。
当時は、5,095万件もの不明な年金記録があると判明した「消えた年金問題」によって政府に対する国民感情はネガティブなものに傾きつつありました。そのため、国民からの信頼を取り戻さなければ政治が成立することもないと考えたのです。例えば、戦後の復興時に成立していた「行政、生産者、企業の立場を優先する法律や制度」は見直しを積極的に行い、国民の立場に立った制度の確立に尽力しました。福田氏の総理大臣在任期間はわずか1年ほどでしたが、消費者庁の設置や外交などに積極的に取り組みました。

6.ほかにもいる群馬県出身の有名政治家

群馬県出身の有名な政治家は総理大臣となった4名以外にもいます。例えば、名誉県民である長谷川四郎氏は戦後初めての群馬県議会議員選挙に当選し、郷土復興のために尽力した人物です。その後、衆議院議員に当選してからは様々な経歴を経て、福田赳夫内閣の建設大臣に就任しています。「水資源の確保と住宅問題」「北関東自動車道の事業」などに着手し、1978年には勲一等旭日大綬章を受章しています。
中島飛行機製作所を設立した中島知久平氏は元海軍の軍人で、実業家として活躍したのちに政治家に転身しています。商工政務次官や鉄道大臣、軍需大臣(後の商工大臣)なども務め、海底トンネルのために地質調査を行ったり、戦後の新幹線に影響を与えた大陸連絡を構想したりなど活躍しました。

群馬県は戦後最多の4人総理大臣を輩出した県!

群馬県からは戦後4人の総理大臣が輩出されており、これは戦後でいえば最多となります。4人はそれぞれの考えのもと、国民の立場に立った政治を行うことを目指し、国内外において大胆な政策を行うなど、尽力しました。また、政治家としては敏腕、人としては温かいといった人物も多かったのです。群馬県民には、多くの総理大臣が輩出された県であることを誇りに感じている人も少なくありません。

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